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【本】『杉の柩』(アガサ・クリスティ/ポアロ) ―エリノアの物語


『杉の柩』☆☆☆☆☆

物語は裁判の冒頭陳述の場面から始まります。検察官によって淡々と進められる事件の説明。心配そうに、あるいは残酷に舌なめずりするように自分を見つめる多くの顔、顔、顔。被告席に立ったエリノアにはしかし検察官の声も徐々に遠くなっていき、それに引きずられるようにして事件当時の記憶の中に沈んでいく―。そうやって事件当時の回想が始まるとてもドラマチックな幕開けの今作は、中身もとてもドラマチック。事件の結末のみならず、強く聡明な女性が心理的な危機・絶望的な状況に一人じっと立ち続ける心理描写に心奪われる話です。冒頭陳述、過去の回想、そして最後に舞台は再び裁判に戻り判決、と緩急つけた話の進み具合も相まって、なにか劇を見ているかのような感覚を覚える作品になっています。

とりあえずあらすじ―

従妹同士で婚約したエリノアとロデリックは、病に伏せる大金持ちの叔母に取り入って遺産を狙う娘の存在を警告する匿名の手紙をうけとる。叔母の見舞いにハンターブリーの屋敷に行った二人は、幼馴染で門番の娘メアリーと再会。エリノアの目の前でロデリックは美しく成長したメアリーに心を奪われ、叔母の急死と時を同じくして二人の婚約は解消される。


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幼いころから愛し続けたロディと結婚目前にして破局。激しい情熱を内に秘める気性の、賢く教養のあるエレノアは、悲嘆や嫉妬を表に出すことが出来ません。そしてメアリィはロディの気を引こうとしたわけでも無くロディの一方的な一目ぼれ、メアリィは申し出を断っており咎められるところが全くなく、メアリィを責めることもできない。努めて冷静を装うエレノアの内に憎悪、嫉妬、自己嫌悪、絶望が出口なくグルグルと渦巻く描写は圧巻です。直接的な心理描写もさることながら、何かを口にしようとして結局閉ざしてしまったり、サンドイッチを食べるメアリーを何も言わずじっとりと見つめるところなど、心の内は何も描かれないものの、何も書かないからこそ伝わってくる緊張感というか、その状況がグワッと頭の中に浮かんでくるというか。読んでいてエリノアの心の動きに同じように翻弄されてしまいます。

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以下ネタばれあり
シャングリラ アフタヌーンティ



後にエレノアから、相手が死ぬことを願い毒を塗ることを想像しながらサンドイッチにフィッシュペーストを塗り、メアリに手渡し、彼女がかむのを見ていたというエピソードが語られますが、毒の替わりにその恨みを込めた料理を食べさせるという代替行為を行えたことで、自分の中のドロドロしたものが昇華されていったというのがとても印象に残っています。料理という作業には、黙々と進める中にふと思わぬことをじっと考えさせるものがあるので、その絵を想像するとなんとなく恐ろしくも有り、この場合は救いでもあったりします。そしてようやく殺したいほどの憎しみから開放されたかと思ったその直後、なんとこんな時に願いがかなうかのようにメアリィが殺され、気が付けば全ての証拠が自分が犯人だと指さす状況に。もう心が折れますよね。最後に安らげる相手がいてよかった。劇的な逆転判決で激しい感情と運命から解放された後に求めたのは静かな安らぎと休息、ポアロ曰くあの人はロデリックに恋しているが必要なのはピーター・ロード医師、恋と幸せは別物というのがポアロ(あるいはクリスティ)の持論のようです。

と、ついついエレノア側に肩入れして見てしまうのですが、ふとメアリィ視点で考えるとすごい迷惑な話だったりw なんか興味もない相手に一方的に惚れられて、その相手の女性にじっとりと逆恨みされるものの、父親の雇い主なので文句を言うわけにもいかず。無視してくれればまだいいのに、何かにつけて良い人のふりをして話しかけてきては、あふれ出る嫉妬を隠し切れず恨みを込めた目で見つめられたり。特にサンドイッチのシーンなんか針のむしろです。親切ぶってお昼になんか呼ばず、こっちはこっちで村で食べさせてくれよと思ったことでしょう。そしてそのまま死んじゃったし。かわいそうなメアリィ。メアリィに関しては、花のような子、というぐらいでどんな子だったのか、具体的に何を思っていたのかはあまり描かれず。メアリィ側の描写も欲しかった気もしますが、そうするとこの綺麗な話がちょっと違ったものにもなりそうなのでまあいいか。

そういえばアガサ・クリスティの小説では、賢く冷静でプライドが高い女性が、長いこと真剣に思いを寄せていた男性を、ぽっと現れた華やかな女性にかっさらわれるというパターンが多い気がします。そして大抵のその男性と華やか女性の中は上手くいかず(または殺され)、この賢くはあるが地味な女性は最終的には幸せに(相手は違う男性だったりしますが)なる。このへんクリスティの女性観や自身のごたごた・人生経験が反映されているんでしょうかね。

そしてこの話のすごいところは、これだけドラマチックで引き込まれる愛憎劇を書いておきながら、事件にはそれは全く関係なかったよ、という驚きの結末。いろいろ取っ払ってみればごく単純な遺産狙いの殺人だったわけです。クリスティはいろんな作中でしばしば、もっともそれらしい人が犯人だと書いていますが、今作でもまず一番に疑うべき、被害者が死んで金銭的利益を得る人物、というのが犯人でした。作中でメアリィが堂々と遺書まで書いてその人物名まで出てきているのに、初読時は誰がその人なのか全く考えもしませんでした。しかしモルヒネ飲んで吐剤飲むまでの間に何かあって手遅れになってしまったりしたら、とか考えると、殺す方も命がけですね。犯行方法もかなり力技、そして発覚も唐突でお前かよ!感が多々あり。でも改めて読むと伏線は沢山散らばっているんですよね。それでも遺書を書かせるシーンをエリノアが見かけてヒステリックに嗤うところとか、注射針の跡を幼いころの薔薇の想い出を思い出す発端にするとか、もうね、ホプキンズに怪しい行動は多々あれどエリノアの物語にすっかり目を奪われてしまうよね。事件部分もエリノアの葛藤もとても読みごたえのある非常に好きな話、読み終わると長い暗いトンネルを抜けた後のような穏やかな開放感があります。

※追記 コメント頂いた方ありがとうございます。数が増えて来まして1件1件お返事はできないのですが、嬉しく読ませていただいています。
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